黝い太陽の雫

気分気侭のブログ

モノクロ

更新するのは久方振りに成る。

最近、と或るアニメに嵌った。其のアニメのと或る登場人物は自殺志願者で、友人と共に敵兵に囲まれた際、こう口にした。

「此の酸化する世界の夢から醒めさせてくれ」と。

鉄のシャベルが赤黒く酸化している処は理系の教科書か何かで善く見る物だし、そうで無くても倉庫か何処かに保管して有る其れが然う成っている事も亦有り得るだろう。そして、通常酸化と云う現象は緩やかに進む物だ。と或る友人に其の登場人物の発した台詞の真意を尋ねてみた処、ゆっくりと世界に対して絶望して居るのではないか、との回答が返って来た。

其の気持ちなら何となくだが判る積もりだ。だが私の場合、「絶望」ではなく「疲弊」又は「疲労」の方が正しい表現である様に思う。そして「酸化」していくのではなく「色褪せていく」―色の着いた世界である筈が、段々とセピア又はモノクロになっていくのを第三者目線で眺めて居る様な感覚を最近善く感じるように成った。そして自身の中にそんな感覚が存在している事が酷く恐ろしく思え、其れを認めたくはなかった。だがそんな世界を見詰め乍ら発する言葉さえも現実味を帯びず、自身で発しておき乍ら何処か浮遊する様な、そんな感覚。

此の国を束ねる筈の立場の者達ではないが、御都合主義に成った覚えは無い。最近では、御都合で言葉を発して居るのではなく、自身の焦りによって然うして居る様にしか自身ですら思えなく成って来て居る。

 比較をする心算ではなかった。其の痛みは誰よりも善く知って居る積もりで居るからだ。なのに同じ様な趣旨の言動に遭い、普段なら迎撃する側で居られる期間や時間はもっと長いのに、箱庭世界の地上を這う迷彩柄のサイコパスに成るのが比較的早かった自覚は有る。もう少し耐えようと思えば耐えられただろうに、早速罪悪感に押し潰されそうだ。

以前鑑賞したと或る映画で、と或る登場人物がこう云って居た。

「どんなに辛ェ思い出でも、覚えてさえ居りゃァとんでもねェ力が出せる」と。

其の通りだと思うから私は然うするようにした、然し、其れを実現するには其の記憶に囚われるのではなく飽く迄「思い出」としなければならないと考えて居る。然うしなければ「とんでもねェ力が出せる」処か平時の半分の力さえ出なく成ってしまうだろうからだ。

其の台詞を吐いた人が罪を犯したのは江戸時代。同心だった彼は「民が納めた金を使って私腹を肥やして居る大名が居る」と旗本から達しを受け、其の大名達を斬り伏せた。然し、蓋を開けてみれば「私腹を肥やして居る」のは寧ろ旗本で、彼が斬った其の大名達は旗本の横領に勘付きお上に報告しようとして居た大名達だった。彼は義に駆られて旗本も斬ったが、当然、其の事実は明るみに出る前の話。旗本を斬り伏せたとあらば其れは反逆罪に相当する。彼は妹を連れ、追手を斬り伏せ乍ら逃亡し始める。然し其の道中、妹の目の前でと或る侍を斬った。其の斬ってしまった侍こそ、妹の亭主であった。其れから妹は気が触れ、逃げ続ける内彼の首に掛かった懸賞金目当てに近付いて来た借金取りに目の前で妹を殺されてしまう。『ぶった斬りエンターテインメント』、「無限の住人」より。『ぶった斬り』と云う表現は迚も合っている様に思う物なので、血生臭いのが苦手な人は漫画の方が善いかも知れない。

その何十年かの後、彼の前に現れた一人の少女は妹に酷似して居り、其の彼女の声で嘗て呼ばれて居た「兄様」と呼ばれた際、彼は怒鳴って突き放すと云う一面を見せた。「覚えてさえ居りゃァとんでもねェ力が出せる」。其れを実現するには、そんな思いをしても尚、突き放せる位には割り切らなければ成せない事なのだろう。そして其れは酷く難しい事なのだろうと思う。

何が云いたいのかと云うと、そんな目に遭わなくても突き放せる位になるには相当の時間を要するのだろうから赤の他人がどんなに要求しようと難しい事なのだろうに、体力も気力も無い中で感覚を掴み直そうと、無い物を探し回って居るから世界が色褪せて見えるのではないか、と云う様な感覚がして居る。

未だ、道に迷った鮭で居たい。然う祈りたいし然う在りたいのだろう。其れが自分にとって一番楽だから。戌に成ってしまっては光は薄い。鮭には帰巣本能が有る。だから川に戻って来ては産卵の為激流に遡ろうとするのだ。

で無くても新しい環境に身を置き劣等感と自己嫌悪に塗れなければならず、脆い私は其れを負担に感じて居るのも事実なので恐らく其れが混合された結果なのだろうと思う。